生活の発見

蔦屋書店をフラフラしていたときに平積みされていたので手にとった。

愛、家族、感情移入、仕事、時間、お金、感覚、旅、自然、信念、創造性、死生観など、普遍的かつ真剣に解明すべき人生の問題にぶつかったとき、わたしたちはどのように生きるべきだろうか。
大昔から繰り返されてきたこの問いは、現代社会に生きるわたしたちにとっても、変わらず、超重要な課題である。わたしたちはいつになったらこれらの悩みを解決することができるのだろうか。おそらく新しい悩みは次々と生まれ、未来永劫、むずかしいことだろう。

典型的な自己啓発本だが、「最先端」を行っているように感じる。少なくとも、疲れて、バカになってきたなーと思ったら、パラパラとめくることで一枚岩でしかできなかった思考をある程度のところまで戻してくれる。

特に面白かったのは、死についての章。これまでの歴史にはあり得なかった形で死を隠蔽された現代は、これを意識的に振り返らないと、忘れてしまう。より込み入った議論は、唯脳論が参考になる。

Deathstyle

過去には死は当然にあるものであり、犬が歩くように、木が生えているように、当然のように死があり、それは生を懸命に堪能するきっかけだった。死に対する研究の中で、「中世の終わり頃ほど人々が人生を愛した時代はなかった」という結論につながる。

死の話題について、タブーにするべき必然はなにもない。仕事と同じように、恋愛と同じように話しても良い。だけど、死は、その性質からして、何かを得るタイミングでもなければ、成長するタイミングでもないので、自身を商品と見据える現代人の気質とは性質が合わない。

私達の社会は、若さ、セックス、権力にとりつかれ、老いや衰えを回避する。労働者としての人生を終えたらもはや不要だと老人を見捨てるのは、おそろしいことではないだろうか。

小さな死

自分がいつか死ぬことがわかっていれば、人生の連続性にこだわることも薄れるんじゃないだろうか。くらやみの速さはどれくらいの中で、主人公のルウは、自閉症の自分を「治療」し、新たな自分に至る。これは、これまでのルウの死に等しい。日常においても、本来であれば刻一刻と変わっていく自分と世界の関係性を強く意識して先に進むのか、目をつむるのか?これ自体も、死へのトレーニングになる。