アンナ・カレーニナ

幸せな家族はどれも同じように見えるが、不幸な家族にはそれぞれに不幸の形がある

というあまりにも有名な一文から始まる本。
ようやく読み終えた。

ただただ見栄をはりたい、成功したいという望み--あの人の心にあるのはそればかり。だから高尚な考えも、教養への愛も宗教も、全部成功するための道具にすぎない

カレーニンと競馬場で出会った際に、アンナが思い浮かべる言葉。読みすすめると、カレーニンは極めて人間くさくて、それなりに配慮がある。自尊心と反比例する弱さを抱えているからこそ、理論武装している用に見える。にも関わらず、アンナにはそれが見えなくなっていく。

お前は何も確立しようとなどしていない。これまでずっとそうだったように、独創性を気取っているだけさ。自分がただ百姓から搾取しているんではなく、思想に基づいて搾取しているって言いたいんだろう。

ニコライが弟のリョービンにぶつける言葉。カレーニンとリョービンに共通している(と俺が思っている)のは、自尊心が強く、いかなる経験、年齢を重ねてもそれを捨てないところ。そういう部分は隠すことなどできないし、そうしていけない周りの人との衝突を生む。

「不当な手段で、ずるいやり方で得た利益は」リョービンはそう言いながらも、何が全うで、何が不当なのかを区別する力が自分にはないと感じた。

作品の随所で登場するリョービンの禅問答。どこまでも自分の人生にある一貫性を保とうとしている用に見える。

学校はすっかりありふれたものになってしまいましたからね

ブロンスキーの雑談。「最近の若者は」のように、永遠に繰り返されるテーマは、なにかを喋っているように見せたいときに使える。

尊敬なんて、本当は愛があるはずの場所が空っぽになったということを隠すために考え出した言葉よ

死に向かって錯乱していくアンナだが、ある種、恋愛の核心に迫るような発言が多く現れる。もはや恋愛感情に基づいて結婚するべきではないとさえ思えるが、リョービンとキティはうまくやる。それはトルストイの言う「(似通った)幸福な家族像」をなぞっているからだろうか。

つまり我々が理解していること、憧れること、したいことのために生きるのではなく、なにかわからないことのために、誰にも理解も定義もできない神のために生きねばならないと言うのだ。

アンナの死後、リョービンは考えが更新される。34歳という年齢で、徐々に、主語が自己実現から変わっていく様子が描かれる。なんとなく思い起こしたのは、ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」の中にでてくる、喉の奥を蛇に噛まれた男の描写。男は苦しんでいるが、突然、蛇を噛み切って立ち上がり、にこやかに笑い、自らの内なる原理に従う超人に生まれ変わる。